こころ

卑屈にならずに自分らしくいること

30代も半ばになると、つい周りから比べられたり比べることが増えてきます。

私はわたし、といられるか

結婚はもちろん、子供の妊娠、家族の介護など、いろんな話が飛び交うような年齢になりました。20代の後半よりも、より真実味を帯びて、事態は深刻に、深く広く問題のように横たわってくるようになりました。

悪気はなくてもグループLINEから流れてくる子供の写真や家族写真に、「わざわざ報告しなくてもいいのにな…」と思ってしまうこともあります。

もちろん、ひとりより誰かに一緒にいた方が寂しくないし、面白いこともあるかもしれない。でもそのために家族になったり子供を作るのか?と言われると疑問が湧きます。結婚したり産んでしまった人は「そんなのはノリだったから覚えていない」と言うかもしれません。でも自分にとってはスルーのできないことなんだと最近気づきました。

一度離婚しているからこそ、誰かと暮らしたり将来を約束することに、なんとなく不安を感じるのかもしれません。いろんな周りの人の話を聞いていると、大変そうな妊娠活動や養育費の不安が飛び交っていて、経済的な合理性も感じられないこともなんとなくわかっています。けれど、そう言うことではないように思えます。

私というあり方が定まらないのかもしれない

結婚していた時も、すごく自分は焦っていたように思います。

夫婦生活の将来像は自分の親のままだったからかもしれません。毎日の家事や育児に追われて、自分の好きなことをしたり、経済的に自由になれない母。子供を養うために、身を粉にして働く父。ありがたいのにいつも申し訳なさを感じていました。

そうはならないように、私は私のままでいれるようにいろんな資格を取ったり、別のコミュニティの人と連絡を取り合ったりしていたのかもしれません。

私が私でいなくなっていきそうという焦りがあったのかもしれません。私の在り方なんて決まってもいなかったのに…。

息のしやすい場所を求めて

結婚したり、子供がいれば、なんとなく社会から認められて、なんらか役割を果たしているように感じるかもしれません。

けれど、結婚した当時にかなり息苦しかった自分が、今無理矢理結婚したり子供を産んでも、また同じように息苦しくなってしまうように思えるのです。

どうしたらいいかわからない。

だから今は、「とにかく自分が息のしやすい方向へ」向いている。それを維持できるようにすると言うことを考えるだけでもいいのかもしれません。無理矢理やってみても難しいことをもう一度やっても仕方がないのです。

今は、自然な流れで、流れるようにことが運ぶ人生を過ごしてみよう。