こころ

やっていけないことなんてあったんだろうか

小さな頃の教育を思い返してみます。それが今の自分に与えている影響ってなんだろうか。

「いけない」がいっぱい

学校教育に始まり、家庭の教育も「いけない」がいっぱいだったのを覚えています。

幼児教育の時は、右も左も分からないから命に関わることや身を守るために「いけない」を教えることは重要だとは思います。でも、私がよく覚えているのは、自分の意思を持てるようになった小学校高学年以降の「いけない」です。

例えば中学校の部活で、「飲み物は部活中に勝手飲んではいけない」「先輩より先に帰ってはいけない」「疲れた顔をしてはいけない」「休んではいけない」などなど、謎の縛りがいっぱいあったように思えます。

それは一つのコミュニティを効率よく運ばせるためのルールだったとは思いますが、いつの間にか自分の心より先に周りを気にして行動するような自己形成をされていたようにも思えます。

そんな風に周りを気にしていたら、自分のことより周りに合わせるようになるのは当たり前だし、自分のことを見失うのも当たり前なんです。ましてや自分に答えがなくて不安になったり、自分を信じることさえできなくなります。

大人になっても気づかない「効率化」のワナ

私たち世代が受けた教育は、ある種、効率重視の社会に適合するための傭兵のように、社会に育てられていたとも言えるのではないでしょうか。そういう教育が浸透し、どの家庭もそんなふうに過ごすものだから、そこから外れることはもっと怖くなっていくという悪循環だったように思えます。

社会でうまく振る舞える人が先頭に立ち、お金や地位を得て、それが理想の姿になっていた。そんな時に、ネット時代が台頭し、普段の社会生活で表現できなかった心の内を吐露する場所ができた。そして、最初は遊び場のようだったネット社会が、今やなくてはならないものになりました。

そして私たちの生活にも変化が訪れます。一つの価値観に染まるのが良いという社会ではなく、様々な価値観の中で共生していくという考えが今スタンダードになりつつある。だからこそ、一点集中の富の仕組みや政治、思想、そういうものが今話題になり、考え直されているのかなあと。

そんな変化のタイミングを迎えているからこそ、何を効率化するべきだったのか、何が効率化しなくても良かったのかを振り返る良い機会に思えます。本当に辛い単純労働などは効率化されて然るべきだったけど、個人の思想や生き方まで効率化しなくてよかったのかな、などなど。

やっていけないなんて、ほとんどない

今改めて、自分の心に素直になってみると、「あれはやらないといけない」「これはこうした方がいい」そんなことで自分をがんじがらめにしていたと思います。

それは教育のせいもあるし、時代のせいでもあるけれど、それでもその環境の中で自由に生きていた人はいるわけで。そんな周りのせいにしていても今更…という時期でもあると思います。

なので、人を傷つけたり困らせること以外は、自分の責任範囲の中でやってはいけないことなどないと思うのです。もっと小さな頃にやってみたかったこと、今からでもやってみたいこと、そんな好奇心を最大限に発揮させて、この世に生まれてきたことを楽しんでみたい、今はそう思います。毎日遊び、遊んじゃおう。