こころ

人生は遊び。かもしれない

最近思うこと。食べれることができたら、あとは人生は遊びかもしれない。

生きてさえいれば、そのほかは遊びかも?

人間は「何のために生まれてきたか」なんて教えられずに、とにかく生まれてきます。そして毎日生きるために行動する。

ご飯を食べるために働いて、ご飯を食べて、種の保存のために家族を持って子供を育てる。本質はそこにしかないと思います。

でもこんなにも便利になって時間が余っている世の中。しかも、寿命や平均年齢が上がっていく世界の兆候の中、ふと「なんで生きていくんだろう」なんて考えることが増えてしまっているかもしれません。

特にコロナになって、家に閉じこもりがちになり、人とのコミュニケーションがオンラインになった今、目的をもって話す時間の方が圧倒的に増えました。

だらっと話す時間や意味のない時間がなくなっていくと、まるで自分が機械になったみたいに目的をこなすような毎日に思えてくるかもしれません。そうすると余計に生きる意味を考えてしまうことがあるかもしれませんね。

でも、生きる意味の答えや正解なんてどこにもない。そう考えると、私は生きることのほとんどは「遊び」であるのではないかと思えてきます。

健康に生きて、食事ができていれば、あとはほとんど遊びの時間です。

どんなふうに遊べるか?が大事かもしれない

私たちの親の世代は、「こうしないと不幸になる」「こうしておいた方がいい」ということを忠実に守ってきた世代です。

そして、私たちへの教育も「将来のために○○をしておいた方がいい」「これをしないといけないんだ」といった内容が多かったように思います。だから詰め込み教育をされ、主体性のない子供が増えた。私も漏れずにそういう子供でした。

なぜ親の世代がそのような教育を行ったかにもきちんと理由があります。親の親世代(祖父や祖母の世代)は戦後貧しくてとにかく働かなければ生きていけない世代だったから。親たちはその様子を見て育ったから、とにかく親の手伝いをするのが当たり前だったし、経済的に豊かになることは生きることにとってとても重要なことだとすり込まれたから。

だけどやっぱり時代は変わっています。私たちの日本の今の世の中は絶対に昔よりは豊かだし、社会保障や生き方も充実し、かなり楽に自由になっています。

そんな中で、従来通りの誰かや社会に習うような生き方をしたら、息詰まってしまうのは当たり前かもしれません。現状とかけ離れた生き方だから。

昔の習慣や考えを生かすことは大事かもしれないけれど、今改めて「人生のほとんどは遊びだ」と割り切ってしまった方が、楽しく過ごせるのかもしれないと思います。

そしてせっかく遊ぶならどんなふうに遊ぶか?を自分で設定できるといいのかなと。

苦しみも辛さも、ある種のプレイ

そんなにうまくいかない!といわれるかもしれませんが、離婚も借金返済も人間関係のゴタゴタも経験した今、私が思うのはそういう最中でずっと下を向いたり人を信じれなかったりしていたのもある種の「プレイ」だったかなと思います。

自分かわいそうプレイ、人生修行道場プレイ。だって、どんなに辛かったとしても、実際に自分の命をたとうともしなかったし、もしそうしたとしても体はそうできないように制御されていたから。人間の体ってうまくできています。自制する作用が本能レベルで働くのですね。

そういうかわいそうな自分プレイを脱出して、人生楽しいモードプレイを今度してみたらどうなるのかな、と今は思うのです。それはそれで未知の世界、楽しめるかもしれませんよね。

要は、自分の人生を遊びと捉えて、どれだけ自分を楽しませるかということが重要で、その中身に関しては人それぞれで良いのです。悲しいプレイしてもいいし、楽しいプレイしてもいい。自分がなんとなく満足できるような環境に身を置いて、麻薬レベル(注意:決して麻薬を勧めているわけでもないしやったこともありません)に楽しいことに没頭するような、そんな経験が人生で一度でもあったら「よかった人生かもしれない」と死んでいけるのかもしれないですね。