居心地のいい場所から抜け出さなければならない時ってあると思います。
人に甘えられるような環境は心地いい

人に甘えられる環境はとても楽です。
例えば実家にいれば、何も言わずにご飯が出てくるし、掃除も洗濯も親がしてくれていた。自分は好きなことを好きなだけやれていた。
一人暮らしでも、誰も何も言う人もいないので、どんな暮らしをしていようとかまいません。それで部屋が荒れていても好きなことを好きな時にやれる。
なので結婚していた時に、昨日まで他人だった元夫と住み始めた時が一番大変な時でした。掃除ひとつにしても、料理にしても価値観が全然違うので、お互いに言い合い指摘しまうようなことが続いていました。次第に疲れ果て、何も言わないようにもなり、本音が言えないようにもなってしまったのです。
この時の何が問題だったのか振り返ると、そこにはお互いに「わかってくれて当たり前」といった甘えがあったように思います。家族になったんだからと、今までの自分の家族のようにしてくれて当たり前だという価値観が、なかなか擦り合わずに最後まですり合わせることができなかったんだと思います。
大変な辛い思い出があり、いまだに夢にも出てきますが、考えてみれば、人と暮らして生きていくということは、自分が一番磨かれる瞬間かもしれません。
物理的な距離というより、心の距離感
離婚をして、物理的な距離感をとってみて感じたことは、もちろん言い争いがなくなり落ち着いたように思いました。ですが、次第に虚しさも感じるようにはなりました。
それは人肌恋しいというような寂しさではなく、あの時もう少しやりようがあったのではないかということです。確かに物理的な距離をおけばすぐに解決するようなことではあったけれど、それは荒々しいやり方だったのではないかと。
本来だったら心の距離をとってみるべきだったのではないかと思います。「わかってくれるはず」という考えは、心の距離を自分と相手の間に詰めすぎた結果におきた甘えだったと思うから。本来なら、その甘えを理解すべく少し距離をおくべきだった。自分というものを2人の関係から切り離して見つめるべきだったと思います。
当たり前と思った時には振り返る

「これをやってくれて当たり前」と思った時には危険信号です。
人はどこまで行っても混じり合えないものですから。まず物理的にも混じり合うことはできません。
誰かと全く同じになるということの感覚が当たり前になって麻痺した時、そこに甘えは生じます。親や兄弟に関しても同じことが言えると思います。
小さな頃に甘えられた感覚は、大人になっても続くものではないのです。むしろ続けるべきではないかとも言えるかもしれません。
大人になったら独立した人として、他者と関わっていきたい。それは恋人や家族に関しても同じことです。