誰にもどうにもできない過去がある。自分でどう清算すべきか、向き合うべきかわからない時がある。
人は誰しも孤独の中で

思い出というのは時に残酷で、大きく爪痕を残してしまう。本人が意図していないところで、どんどん膨らませもしてくるし、自分の首をしめて苦しめることもする。
忘れることが正解なのか、時をやり過ごすことが正解なのかわからない時。誰かに話して解決する問題なのか。自分一人でやり過ごすべきか。
ただ残酷な時間と空気だけが自分を支配して、何も前に進めない時も。
歳をとれば何かを始めることが億劫になる反面、勢いで何かを始めてしまうこともできるし、始めてしまったら引き戻すことの難しさも知っている。
だけど、本当の心は嘘をつけなくて、過去と今を行ったり来たりする。
そんな相手の様子が垣間見えてしまう時、私はどうするべきなんだろうか。
本当の優しさとはなんだろう

過去を責めることなんて絶対にしたくないし、ましてや今を厭うこともできない。相手の思いは私の思いとは違くて当たり前だから。
過去の思いに囚われることも、相手をまだ思い続ける気持ちが残ることも完全にないなんてあり得ないことだから。
だけどやっぱり不安だ。
私の寂しさや不安を出していいものか、とても迷うけれど、相手が悩んでいるときに、自分のヤキモキを言葉にされてどう思うだろうか。戸惑うに決まっているし、気を使うのは当たり前に思えてくる。
そんなことになるのがわかっているのに、自分の気持ちを正直に伝えたところで何にもならないのだ。
今私ができる優しさは、ただ見守っていることかもしれない。何かを言えば、相手が辛いはずだ。そしてこれは自分を犠牲にしている訳ではなく、相手を思う優しさだと思っていたい。
誰かと一緒にいるということは

誰かと一緒にいるということは、とても複雑なことだ。
一人ならどんなに楽だろうか。自由気ままにやっていればいいし、相手のことを気遣う必要もなければ、推し計らうことだってしなくてもいい。
けど、人は孤独を避けようとしてしまう。
孤独を愛せたなら、不安になることなんてないのだ。どんなふうに転んでも、崩れ落ちたり人を信頼できなくなるなんてことはない。
誰かと一緒だからこそ、孤独を愛してみたい。そこで見えるものがきっとあるはずだ。