まだまだ短い人生だけれど、30年以上生きてきて理解していることがあります。
それは「あ、やばそう」とか「良い感じがする」などの、第一印象の感覚は理論より勝る時が割と多くあることです。
動物の感覚なのか

人間も動物だから、勘が働くのでしょうか。
人間関係も、場所も、お金も、食事のお店を選ぶに至るまで、直感的な印象というのはその通り当たる確率が多いです。
それは、人が感覚を頼りに判断する生き物だとも言えるかのようです。
本来なら、「大人なら社会人なら理性的に判断する」というのが当たり前のように思いますが、実はよく見てみると、感覚的に判断することの多いことにびっくりします。
見た目や雰囲気で一見し、内容を理解し、その後にその場の空気まで読んで、最後の最後は感覚的に決めるのが人間です。
政治の世界もそういうことが多くあると思います。プロパガンダとかはそういったことを利用した手法ですね。
正義とはそれぞれにあるもの

何が言いたいかというと、「正義とは、こうあるべきというものではない」ということです。
ここ最近、縦社会の強かった時代から横の社会に踏み出そうとしている時代の流れを感じます。
例えば、LGBTのことや、働き方改革、リモートワークの普及。個人が選択肢を自由に選べることを広げるような活動が出てきています。
その中でも、やはり「こうすべきだ」は少なからず残っていきます。コロナ禍での自粛警察とかも一例ですね。
自由の前において、正義とは解釈が幅広くなることを指すと思います。それぞれの正義があっていいはず。大事なのは、正義の定義が違う中で、理解し合おうという姿勢を持ち続けられるかどうか。
元々感覚的な決断をする人間だからこそ、感覚を理解し合うことの大切さがこれから重要視されてくるのかなと思います。
私は、文脈を知り、理解し合える人でありたい。筋が通るからOK、善悪論というところから少しずれていてもいいから、そういう人間でいたいなと思ったのです。
今日はちょっと硬い内容だったけど、たまにはこういうのもいいかな。