友達は選べってどういう意味だろう?
小さい頃から女の子のグループというのが苦手でした。だからと言って孤立する勇気もなかったから、何となくおんなじ感じの子と一緒にいるようになって。
中学生の時、あるグループからハブられた子が、私と仲良くしだして3ヶ月後、また前のグループの子たちと仲良くなったら、私と仲良くするのをやめた、ということがあります。
その子には悪気はなかったと思うのだけれど、何となく私は「私ってもういらないって格付けされたのかな」と思ってしまい、自分の価値をそんなに高く見積もれなくなりました。
みかねた姉が「嫌なら嫌と言いなさい、友達は選んだ方がいいよ」とアドバイスをくれて、でも選ぶほど自分にはそんなに価値がないし…と思っていました。
そこから、高校生になったら、何となくそういう交わりで傷つくのが嫌になって、一人行動を始めたり、自分の世界にどっぷり浸かることが多くなりました。
大人になってからの友達って
社会人になって、「友達」って何だろう、と思う機会はたくさんあります。出会いがないから会社の同僚が友達みたいなものなのか…でもちょっと違うし。
そんな時、高校時代の友達と久しぶりにあって何回か会って行くうちに、「今無職だから、ちょっと多めにここの食事代を払って欲しい」と言われたことがありました。
不思議なことに、こういう感じは、結婚してからも旦那に「現金を今持っていないから払って置いて」と言われて支払ってくれなかったという経験で、また繰り返されることになります。
自分の価値は自分で決めてしまっている
人の価値はお金で測れない、とは思うのですが、何となく思うことは、お金に対してルーズな人は人間関係もルーズです。これは、私にお金を支払って欲しいと言ってきた人にも言えることだし、そうさせた私にも言えることだと思います。
そう、この人だったらそう言っても怒らない、という価値観を抱かせていたのは、明らかに私自身です。
自分の意思表明をしたら、また誰かに見放されるのではないか、という恐怖に対してだけ敏感で、自分の「嫌だ」という気持ちを抑えていました。
自分が見放されて孤独になるのが怖いから、そういう人(嫌なことを頼まれてもいいよと言ってくれる優しい人、だけど本当は優柔不断で断れない人)と思われてもいい、という態度を自ら取ってしまっていたと思います。
態度が違くても、同じような考えの人には同じような人が吸い寄せられるものなのです。
お金の管理は、人間関係にも通づる
離婚して、借金を返していく生活の中で思ったことは、お金の管理は人間関係にも通ずる、ということです。
人に頼まれて断れない、というのは、最終的に嫌われたくないという見栄を張る自分のための行為です。残念ながらお金というのは、そういう見栄を張る人たちにとって格好の道具になってしまいます。
お金をきちんと管理したいなら、自分を偽らずにいれることが大事です。何も対面で「あなたは私を利用しようとしている!」なんていうことをすべき、という話ではありません。笑
嘘も方便です。今、この人と一緒にいたくないなと思ったら「予定がある」と言えばいいし、連絡をしつこくされたら「携帯が壊れた」と言って連絡を断つことだってできます。相手を傷つけずに、自分のための嘘をつくのは犯罪じゃないです。
「のほほんと生きる」と決めた私の展望
いろんなことが起きた中、私がこれから生きていく時にどういう人生を歩みたいか考えた時、こんな思いが胸にこみ上げました。
「もっと、平和な心でのほほんと生きていきたい。」
誰かと言い合ったり、競ったり、裏切ったり裏切られたりと感じることもなるべく無くしていきたい。
それでも、ただでさえ、のんびりな性格だから、生き抜くためのお金の知識やスキルはちゃんと身につけよう。そして自分の心に忠実に生きていこう。
友達がいなくても、いても、また同じようなことが起きた時に、するりと状況打破できる自分でいよう、と。
真の強さって、そういう心がけのことや思いのことを言うのかな、と思う今日この頃です。